にんじんとるねーど

富山が産んだチルユニット『石垣クリエイターズ』でみんなチルしよう

なぜインキャと陽キャは分かり合えないのか

僕は俗にいうインキャだ。

この前こんな出来事があった。友達6人と旅行してその泊まりの夜、やることといったら駄弁りしかない。ただただその内輪のゴシップなり、恋愛話なりを語り尽くした。

僕は元々会話の輪に入るのが上手な方ではないが、できることなら入って楽しみたいと思っている。だがいつもと同じ現象が起きた。会話の輪からはみ出てしまった。陽キャだけで会話が回っていた。

その時の居心地の悪さは最悪だった。なぜ最悪だったのか考えてみた。なぜそんなに会話に入れないことが最悪なのか?

答えは簡単だ。いる意味がないからだ。存在意義がないからだ。会話に自分が入らなくとも勝手に回ってしまうからだ。人はある集団の中でいる意味を見出せない時、疎外感を覚え鬱屈になってしまうものだ。

ここである1つのことに気づいた。それは会話に入れたか入れなかったのかの差ではない。周りに僕が空間にいてもいいよという承認が見えたか、見えなかったかの違いだ。あるインキャで、会話の自分のターンに僕に目配せをしてくれる人がいた。それで僕が会話に入った訳ではないのだが、僕はその瞬間居心地の良さを感じた。なぜか。それはその人が僕の存在を認めてくれたからだ。そこにいる意味を感じたからだ。別に会話に入ってるとか入ってないとか、そんなことはどうでもいい。その空間に僕がいてもいい状態として成立したから僕は嬉しかった。

空間とはみんなが作り上げるものである。もちろんインキャも会話の輪に入れない現状にふんぞり帰って、「おいこっちに会話のボール回せよ」と傲慢な態度をとっていてはダメだ。

陽キャも同じである。自分達ばかりで空間を支配していては他の人の入る隙がない。それはお互い様である。空間とはみんなが作り上げるものである。会話とはみんなで繋ぐものである。言葉だけが会話じゃない。頷いたり相槌したり目配せしたり、会話への参入をたくさん試みるべきだし、会話への参入のチャンスをみんなで作っていくべきである。みんながみんなに歩み寄るべきである。

今回の夜のおしゃべり会は陽キャだけを中心に回る会話が多かった。だから僕は居心地の悪さを感じたのだった。

だがそれは陽キャだけが悪かったのではない。タイミングも悪かった。

この夜のおしゃべり会の前に、晩ごはんとしてバーベーキューをした。その時はインキャの僕でも楽しかった。それはワイワイやれる空間の中でみんなまで会話の輪が広がっていたからだ。今思い返してもある特定の誰かだけが喋っていない状況を思い起こせない。

しかしその後の深夜となると話は違ってくる。そもそも深夜で6人分に会話の輪を広げる雰囲気を作るのは難しい。しっとりとした静寂の中で作れる空間の輪はせいぜい3人までである。今回の事態はやむを得なかったと言わざるを得ない。そう言う場合はすぐ寝るべきだった。